2009-12-31
長生きの秘訣? 年寄りが言った。二、三百年考えさせてくれ。
おれが返事に窮していると、冗談だよと年寄りは続けた。二、三百年も待ってたら、あんたもう生きてないだろう。はあ、まあ。おれは何とも情けない声で返事をした。冗談をいわれるとは思わなかった。もっと、こう、真面目な相手のような気がしていたのだ。
あんたは長生きしたいのかね、と年寄りに聞き返されて、特にそういうわけではないと思った。長生きの秘訣を尋ねたのは、他に気の利いた質問を思いつかなかったからだ。ものすごい年寄りを目の前にしたら誰だってまずはその辺から聞いてしまうのではなかろうか。
では長生きしたくないのか。そう改めて聞かれてまたまたおれは口ごもった。もちろんすぐに死ぬのはいやだけど、とりわけ長生きをしたいとも思わない。だからおれは素直にそう返事をした。ギネスブックに載りたいわけじゃないですね。
ギネスブック? と年寄りが訊く。何だねそれは。
おれはちょっと焦った。ギネスブックが何かを知らない年寄りにギネスブックについて説明するには何から始めればいいのだろう?
ギネスというはビールのメーカーで、というところから語り起こすべきか、だからそもそもは酒を飲みながら話すのにうってつけな話題、すなわちギネスが進む雑学ネタを集めた本として、つまりはパブでのビールの売れ行きを促進するためのセールスプロモーションの一環として始まったらしいとか、いやいや、そんな本の歴史みたいな話はいらないだろう。もっとずばっと本の特徴を捉えて言えばよかろう。
世界記録がいろいろ書いてある本です。おれは説明を試みた。毎年出版されていて、世界一爪が長い人とか、信じられないくらいのっぽの人とか、林檎の皮むきの記録とか、ものすごく太った犬とか、スポーツの記録とか、巨大な建築や、速い乗物や、珍しい生き物とかが載っていて、だいたい思いつく限りありとあらゆる世界記録が書いてあります。人間やら動物やらの世界一の年寄りも載ってますね。
ふうん。年寄りはうなずいた。誰が読むんだね、そんなものを。
誰が? そうですね、そういう変わった記録に興味がある人が。あ。そうそう。ギネスというのはビールのメーカーでね、そもそもは酒を飲みながら話すと面白そうな小ネタ集として始まった本らしいですよ。
そうかそうか。酒を飲みながら話す内容か。それならわかる。
しまった。やっぱりそこから語り起こせば良かったのか。
London...
えっ?
When I was in London.
年寄りは懐かしい時代を思い起こすように目を閉じ、うっとりした表情になって、しかも妙に綺麗なブリティッシュ・イングリッシュで話し始めた。自慢じゃないが学生時代英語では赤点をとり続けたおれはあわててさえぎった。ちょちょちょっと待ってください。おれ英語ダメなんですよ。
年寄りは少しだけ目を開けると、冷ややかな横目でおれを一瞥し、また目をつむるとするすると首を引っ込め、前肢、後肢も引っ込めてしまった。たったいまのいままでおれに話しかけていた年寄りの姿はもうなく、そこには巨大な岩の塊然とした物体があるばかりだ。
あの、とおれは声をかけた。すみません、余計なことを言いました。けれど返事はなく、おれの言葉はむなしくゾウガメ舍の空中に吸い込まれていった。とたんにおれは我に返ったようになった。真夜中の動物園。ゾウガメ舍でゾウガメに向かって独り言を呟く男、それがおれだ。ゾウガメが自分に話しかけてきたと思い込んで長生きの秘訣を尋ねたり、ギネスブックについて説明を試みたりしたが、全部幻聴だったに違いない。おれは頭がどうかしているのだ。女房と子どもと三人、幸せに暮らしているのに、自分が自分でないような、このままではいけないような気がし始めていたのも、少々頭がおかしくなり始めていたせいかもしれない。
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